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子規、虚子、松山

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  • サイズ B6判/ページ数 250p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784622070047
  • NDC分類 911.36
  • Cコード C1092

出版社内容情報


「明治時代の俳句」「正岡子規と現代俳句」「『子規の俳句観』印象記」「高浜虚子」「虚子先生のことなど」「師の一句――覚書として」「松山の友人たち」「伊丹万作の思い出」「『坊っちゃん』中学」「松山の道後」「五月の島」「松山郵便局」ほか全21篇を収める。

「瀬戸内海を控え、なだらかな山々をめぐらし、程よい広さの平野の中に、松山は昔からたった松山孤りで暮らして来た。外部との激しい交渉は殆どない。謂わば血族だけが一つ所一つ屋根の下に水いらずの生活をしてきたようなものである」。

その伊予松山が育んだ俳人に、正岡子規、内藤鳴雪、高浜虚子、河東碧梧桐がいる。そして「子規以来、松山人を中心とし、明治期の新俳句は発祥したし、松山人を中心として受継がれてきた」と語る中村草田男そのひとも、「松山人」の系譜に連なる俳句作家である。「松山で生まれ、中学、高校時代をここで過したことは、私の多感な青年期に大きな影響をもたらしたと思います」。

近代俳句を創始し、完成させた同郷の先達ふたりについて、「俳句の都」と冠される故郷について、草田男が折々につづった評論・エッセイを1冊に編んだ。夏目漱石も教えた母校・松山中学のこと、映画人以前の伊丹万作、伊藤大輔との交遊など、在りし日の一城下町の風景が、あざやかによみがえる。

中村草田男(なかむら・くさたお)
1901年、父・修が領事を務めていた中国の廈門(アモイ)に生まれる。本名・清一郎。1904年、母・ミネと二人で帰国し、松山市に住む。1925年東京帝国大学文学部独逸文学科入学、のち国文科に転科。1933年成蹊高等学校(旧制)教授。1949-67年成蹊大学教授、1969年名誉教授。1929年に高浜虚子の門に入り、東大俳句会に入会して「ホトトギス」投句を始める。句集『長子』(1936)、『火の島』(1939)、『萬緑』(1941)を刊行した後、1946年主宰誌「萬緑」創刊。さらに句集『来し方行方』(1947)、『銀河依然』(1953)、『母郷行』(1956)、『美田』(1967)、『時機』(1980)を刊行。この間、メルヘン集『風船の使者』(1977)により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。エッセイ集『魚食ふ、飯食ふ』(1979)、評釈『蕪村集』(1943;1980)のほか、評釈・入門書・季語選など10余冊の著編書がある。1983年歿。翌年、芸術院賞恩賜賞受賞。『中村草田男全集』全18巻・別巻1(1984-91、みすず書房)がある。

内容説明

正岡子規没後100年。近代俳句を創始し、完成させた同郷の先達、「俳句の都」と冠される故郷について、折々につづられた評論・エッセイを1冊に。

目次

明治時代の俳句
正岡子規と現代俳句
松山に於ける子規五十年祭典のこと
「子規の俳句観」印象記
高浜虚子
虚子先生のことなど
虚子三句
ゆかりの虚子二三句
師の一句―覚書として
解説―『五百句・五百五十句・六百句』〔ほか〕

著者等紹介

中村草田男[ナカムラクサタオ]
1901年、父・修が領事を務めていた中国の廈門に生まれる。本名・清一郎。1904年、母・ミネと二人で帰国し、松山市に住む。1925年東京帝国大学文学部独逸文学科入学、のち国文科に転科。1933年成蹊高等学校(旧制)教授。1949‐67年成蹊大学教授、1969年名誉教授。1929年に高浜虚子の門に入り、東大俳句会に入会して「ホトトギス」投句を始める。句集『長子』(1936)、『火の島』(1939)、『万緑』(1941)を刊行した後、1946年主宰誌「万緑」創刊。さらに句集『来し方行方』(1947)、『銀河依然』(1953)、『母郷行』(1956)、『美田』(1967)、『時機』(1980)を刊行。この間、メルヘン集『風船の使者』(1977)により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。エッセイ集『魚食ふ、飯食ふ』(1979)、評釈『蕪村集』(1943;1980)、講演集『俳句と人生』(2002)のほか、評釈・入門書・季語選など10余冊の著編書がある。1983年歿。翌年、芸術院賞恩賜賞受賞
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