内容説明
漱石、子規、鴎外、ポー、ドイル、ハメットなど多くの名作の中にひっそりと生れ、作者と読者を静かに誘い、やがて炎の如く世界を染め上げる色=「赤」。この魔性の色と「フィクション」との、驚きに満ちた関係性が徹底的に考察され、ギリシャ的な図式や多くの理論家の呪縛から読者を解放する。フィクション論の決定版。
目次
序章 「誘惑」から「擁護」へ
1 「赤」の誘惑
2 理論と混乱
3 可能世界と構造分析
4 少壮歴史家の書斎で
5 編みものをする女
6 ギャラリーから市街電車へ
7 「類推の魔」
8 地球儀と証言
9 「緋色の糸」に導かれて
10 「赤」の擁護
終章 仮象、出来事、フィクション
著者等紹介
蓮實重彦[ハスミシゲヒコ]
1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。教養学部教授を経て93年から95年まで教養学部長。95年から97年まで副学長を歴任。97年から2001年まで第26代総長。主な著書に、『反=日本語論』(1977、読売文学賞受賞)『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』(1989、芸術選奨文部大臣賞受賞)『監督 小津安二郎』(1983、仏訳映画書翻訳最高賞)など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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harass
69
分析哲学や文芸での「フィクション」を論じるときに、かならず「赤」という言葉がでてくるのだ、と著者。だいたいフィクションという概念自体が実に曖昧なままで、著名な学者たちもそれらしく論じているのだが、著者はツッコミを入れまくる。正直力技というか、無理矢理感があり、馴染みのない学者名や概念が自由自在にでてきて翻弄され、論旨を追うこと自体難しく、貸出期限が近づいたのもあり不本意な読書だった。だがこういう著者であると、いささかの問題意識も確認できたから良しとしたい。まあ、手元に置きたいとは思えなかったのは正直な話。2018/07/20
kthyk
16
親友の妻、三千代を奪い、そのことから父親や兄の怒りばかりか社会や人間も敵としてしまった代助。白い花の薫りに包まれた世界は赫たる炎火に包まれる。赤い郵便筒、赤い蝙蝠笠、真っ赤な風船玉、赤い車・・・「世の中真っ赤になった」。この書は「漱石の「それから」はあくまでフィクションとして読まなければならぬ」としている。ルーマンの「社会の芸術」では1 9世紀後半、近代的なものとして、模倣が放棄されただけでなく、虚構性もまた放棄されたりということだ。そうだろうか、フィクション論は文学や音楽・建築にはいま最も重要だと思う。2022/07/07
しゅん
15
フィクションを論じることがどれだけ過酷で困難なことか。本書はそのことだけを執拗に明示し続ける。フィクションの体系を語ろうとすると、テクストが必ずそこから溢れていく。ジュネット、ラカン、アウエルバッハ。高名な理論家達が次々と罠に嵌まっていく。こぼれ落ちた言葉の中には、何故だか「赤」がつきまとう。フィクションに触れるためには、テクストから目を逸らさず「赤」と戯れるところから始めるほかないーーテクスト論者およびテマティストとして名高い著者ならではの不可能との接触。愚直なまでに論理的な書き方が強く印象に残った。2017/06/24
ミツ
5
阿部和重から。初蓮實重彦。かなりクセのある文体で論旨が追い難い。序章終章の他10章からなりフィクションと「赤」に関する考察がなされる。各章ごとにみればどの論考も難解だが面白く示唆に富んでいるが、本書全体の論のつながりが不鮮明で読み通して全てを理解するには相応の知識と根気と体力が必要。個人的にはフィクションにおける『模倣』や可能世界論と構造分析に関する箇所が興味深かった。佳作、だが要再読か。2010/11/01
OjohmbonX
3
なんちゅう困難さ。汎用的な体系を打ち立ててフィクションを語ろうとすれば結局は体系に現象(フィクション)を隷従させるハメに陥る。そして現象は体系をすり抜ける。そんな罠が張り巡らされている。(罠にはまった人たちが本書では何人も挙げられることになる。)でも網の目を細かくしてもダメ。フィクションの同一性の曖昧さのせいで原理的に網目をすり抜けてしまう。じゃあどうやって語り得る? この困難さ。本書では罠にかかった人達が具体的に何を語り落としたかが例示される。そうやって実作そのものにひたすら目を向けるより道は無さそう。2011/02/14