内容説明
「一身にして二生を経るが如し」―地続きでありながら、明治から見た江戸は遠い世界のようだった。福澤諭吉と大隈重信。近代日本をリードしたこの二人の巨人は、幕末の若き日、かたや洋学者として、かたや尊王の志士として、自らの属する世界と格闘し、新しい時代を切り拓いていった。本書は、このタイプの全く異なる二人の洋学書生がいかなる行路を経て明治の舞台に上ったのかをたどる、短い物語である。
目次
1 二人の巨人(旧社会の破壊者;略歴と二人の関係)
2 ナショナリズムとアンシャン・レジーム―福澤諭吉(もう一つの世界;門閥制度;長崎から大坂へ;家督相続;江戸にいき、英学を始める;洋行;建白;『西洋事情』;学問の力)
3 志士の洋学―大隈重信(組織と人材;正規の課程をはずれる;尊王論;時勢を知る;洋学;藩財政にかかわる;組織を動かす困難;新政府の人材登用)
著者等紹介
池田勇太[イケダユウタ]
1978年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。専攻は日本近代史。現在、飯田市歴史研究所研究員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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壱萬弐仟縁
26
戊辰戦争において、幕臣の福澤諭吉は敗者に属した。だが、彼は戦争と学問とを峻別し、引き籠って読書・翻訳を行い、洋学教育に従事した。1868年4月に新銭座の慶應義塾を拠点に(053頁)。福澤先生は、徳川幕府の出仕を拒み、ひたすら教育と翻訳著述業に精をだした。地理の『世界国尽』1869年、『啓蒙手習之文』71年を刊行した(054頁)。独立というのは自由をえること。私塾経営と翻訳著述業で自立しようとした(056頁)。2015/12/24
解体工事
2
幕末の若き日、かたや洋学者として、かたや尊王の志士として、自らの属する世界と格闘し、新しい時代を切り拓いていった福澤諭吉と大隈重信。このタイプの全く異なる二人の洋学書生がいかなる行路を経て明治の舞台に上がったのかをたどる、短い物語。正直内容は難しくてよくわからなかったですが、洋学、蘭学などの学問という武器を日本に繋げてあらゆる政策をした、ということは分かりました(笑)こういう『日本史』的なやつは学生の頃から苦手意識バンバンあったので、また機会があったら違う偉人の話も読みたい。2018/09/12
rbyawa
1
e154、福沢諭吉と大隈重信の事績、というよりは彼らがそれぞれ世に出てある程度の地位に至るまでの話というか、福沢諭吉は明治政府の要人として呼ばれて断るまでと、大隈重信はとりあえず佐賀から中央政府に取り立てられるくらいまでかな? ちょっと失敗したというか、私この人たちの往年の事績をまだ把握してないんですよね、どちらも下級武士の出で、福沢が中津藩、大隈が佐賀藩。佐賀のお殿様は正直事なかれ主義らしいんですが尖った若者たちにも寛容、脱藩しても寛容、結局慕われてたみたいで大隈が役人になった時点にも喜んでていい人だw2014/06/03
sonohey
0
福澤諭吉と大隈重信、有名大学を創立した二人の、学問を武器に成長していく青年時代の姿を描く。当時の、迫りくる外国と衰退していく幕府という情勢のなかで、伝統的な学問であった儒教、国学、蘭学に留まらず、洋学を先取していった二人。価値観の転倒していく時代の中で、福澤は文明開化を、大隈は倒幕を掲げ、啓蒙と政治というそれぞれの道を進んでいく。彼らの生き方は、学問の与える新たな価値観が混迷の時代において大きな力になる、ということを示している。2014/07/19
うどんさん
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福澤諭吉と大隈重信と言えば明治維新後の活動、特に国会開設運動をめぐる邂逅などを思い起こすが、本書は二人が本格的に活躍する前にスポットを当てた前半生の簡潔な対比列伝となっている。共に洋学を学び活動の機会を得ていく点では共通するが、福澤は出身藩への帰属意識が低く旧来の門閥制度を批判し「一身の独立」のための文明の啓蒙活動とその実践に邁進していく。他方、大隈は旧来の藩体制の枠内に大筋ではとどまりながらも、政治活動と両立させながらの勉強という要領の良さを発揮し、その才により新政府に登用され出世への道筋をつけていく。2022/08/04