『不如帰』などの作者で明治日本の小説家・徳富蘆花の講演と日記の抜粋が、シェークスピア翻訳などで著名な中野好夫さんにより編集された一冊。
わたしも蘆花は詳しくはないので、お詳しい方がいらしたら訂正していただきたいのですが、『謀反論』は明治44年の「大逆事件」での当局による幸徳秋水ら共産主義者12名の死刑を弾劾したものです。次第に国家主義的になり、官製機関誌化の方向に向かった新聞記者の兄・徳富蘇峰とは思想信条の違いから相入れなかったようで、その確執がつづられた日記が、本書に付されている日記の抜粋部分です。
ロシアの文豪レフ・トルストイと面識があり彼から影響を受けたトルストイアンでもあり、それだけに宗教的な(詩人的な)心性と独特の「筋」をもつ剛毅な心性の持ち主だったようです。作品中で事実に反する書き方をしたという大山巌の妻に対する態度(死去の直前に謝罪)などは問題があると思いますし、『謀反論』で開陳されている天皇さんに対する熱い忠義心もわたしには理解できないですが、それでも蘆花のいわば<謀叛のすすめ>ともいえる講演には、胸を打たれるものを感じました。時代が違うと言われればそれまでですが-蘆花の時代はサムライ文化の遺風がまだ濃く残っていた頃ですから、たしかに我々とは生死に対する感覚が全く違うでしょう-それでも、現代の文学者や教育者の中に、ここまで言い切り、自分でもその言葉に殉じる生き方のできている大人はどのくらいいるのでしょうか。現代で大人たちが子どもに叩きこむリスク回避や過度の効率化、最短距離=エリートコースという価値観はビジネスには有用でも「人間教育」に対して果たして効果的でしょうか。子どもに思考しない「従順」より自由に考える「謀叛」を推奨するような深い人生観や覚悟、勇気のある「大人」がいない社会は明るいのでしょうか。「死ぬことと見つける」サムライは死に絶え、「命あってのモノダネ」の商人道徳が現代社会の基本道徳でしょう。戦時中のように「お上」に滅私奉公するような武士道や道徳は無論いらないのですが(蘆花も国家主義には反対しているのですし)、しかし、ある意味で「あえてリスクを取る」こと、「謀叛」し「己を賭ける」ことは、「本当の意味で生きる」ためには必要なのかもしれません(そこまでして「本当に生き」なくてもいいという人間の時代が大衆の時代なのかもしれませんが・・)。
以下、さわりを引用。
「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。『身を殺して魂を殺す能わざる者を恐れるなかれ』。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わさるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある、それは形式残って生命去った時である。・・・・愛別、離苦、打克たねばならぬ。我らは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して言曰う、諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。
諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。」
イギリスの作家オスカー・ワイルドは「生きるとは、この世で一番稀なことだ。大抵の人は、ただ存在しているだけである」と言いましたが、この講演で蘆花の言う「生きる」いうことと一脈相通ずるところがあるように思います。安逸を第一とする事なかれ主義、型にはまった思考停止、安易な言葉のコピペなどで「形式化」する生を峻拒するとても厳しい言葉ですが・・。
無論、誰もがこんな純粋で激しい生き方ができるわけではないでしょうし、むしろ可能だとしてもあえてこう生きたくはないかもしれません。ワイルドも蘆花もかなりの変人であり、一般社会からしたらアウトロー・アウトサイダーに近い存在でしょうし、だからこそこんなことを言えるのではあります。彼らは孤独や危険を恐れずに社会大勢からの異端者として、社会や常識、通念を挑発し攻撃します。それが天に与えられた彼ら詩人の役割なのかもしれません。使命に忠実であった彼ら、苦しみながら自分を生きた彼らからだからこそ、我々は本質的な何かを教えられるのであり、わたしは自分たちと異なる眼差しを持つ人たちから投げかけられる言葉に感謝したいと思います。
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謀叛論―他六篇・日記 (岩波文庫) 文庫 – 1976/7/16
明治44年1月、大逆事件被告幸徳秋水ら12名が処刑された。その1週間後、蘆花は招かれて一高の演壇にたち、死刑に処した政府当局を弾劾、精神の「自立自信、自化自発」を高らかに鼓吹する。その講演のほかに、これと密接に関連する「死刑廃すべし」等六篇、また兄蘇峰との確執が窺われる日記を併収。(解説 中野好夫)
- 本の長さ130ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1976/7/16
- ISBN-10400310157X
- ISBN-13978-4003101575
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1976/7/16)
- 発売日 : 1976/7/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 130ページ
- ISBN-10 : 400310157X
- ISBN-13 : 978-4003101575
- Amazon 売れ筋ランキング: - 147,251位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2016年7月7日に日本でレビュー済み
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2017年9月23日に日本でレビュー済み
ワンコイン以下で買える(税抜420円)「教養」という意味で、お勧めです。
「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」(23p)
蘆花徳冨健次郎の、この有名な社会的発言には、押さえておかなければならない事実が、4点ある。一つは、大逆事件大量処刑のわずか、8日後の一高講演だったこと。一つは、これは草稿であり実際の発言速記録などは一切残っていないこと。一つは、当時公開の場で叛徒弁護の発言をしたのは、蘆花ひとりだったこと。一つは、それにも関わらず、蘆花は警察の取り調べさえも受けていないこと。
私は、異論があるのを承知で書くと、蘆花の意見は、現代ワイドショーにおけるリベラルと言われる評者の意見に似ていると思う。
社会主義の台頭を恐れた政府は、まともな審議もしないで、見せしめの為の大量処刑をしたのは、現代日本史の定説である。そこには、日本における社会主義とはなんだったのか、をきちんと踏まえた上での評価になっている。
蘆花には無い。むしろ、社会主義がどんなものであれ、天皇を殺そうとしたのがたとえ事実であれ、社会のために良かれという動機さえあれば、「死刑はしてはいけない」という一点のみがあるだけである。
その過程で、西郷も吉田松陰も、謀叛の罪で処刑されたが40年30年経った今は名誉回復されているのを見ても「新しいものは常に謀叛である」という名言が飛び出てくるのではあるが、「新しいもの」への真の理解は無いように思える。
バリバリ右翼の徳富蘇峰を兄に持ち、政府要人に知り合いも多い、有名人の蘆花を弾圧するよりも、「ガス抜き」として利用する方が利用価値がある。政府がそう考えたとしてもなんら不思議はないだろう。
ワイドショーで、多くの評論家が、政府に批判的なことを言っている。蘆花の文章は美文である。惚れ惚れする。評論家の意見は玉石混交で、多すぎてわけがわからなくなる。
誰が、本質的なことを突いているのか。
歴史は、それは目に見えやすいところにはない。ということを伝えている。
2017年9月6日読了
「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」(23p)
蘆花徳冨健次郎の、この有名な社会的発言には、押さえておかなければならない事実が、4点ある。一つは、大逆事件大量処刑のわずか、8日後の一高講演だったこと。一つは、これは草稿であり実際の発言速記録などは一切残っていないこと。一つは、当時公開の場で叛徒弁護の発言をしたのは、蘆花ひとりだったこと。一つは、それにも関わらず、蘆花は警察の取り調べさえも受けていないこと。
私は、異論があるのを承知で書くと、蘆花の意見は、現代ワイドショーにおけるリベラルと言われる評者の意見に似ていると思う。
社会主義の台頭を恐れた政府は、まともな審議もしないで、見せしめの為の大量処刑をしたのは、現代日本史の定説である。そこには、日本における社会主義とはなんだったのか、をきちんと踏まえた上での評価になっている。
蘆花には無い。むしろ、社会主義がどんなものであれ、天皇を殺そうとしたのがたとえ事実であれ、社会のために良かれという動機さえあれば、「死刑はしてはいけない」という一点のみがあるだけである。
その過程で、西郷も吉田松陰も、謀叛の罪で処刑されたが40年30年経った今は名誉回復されているのを見ても「新しいものは常に謀叛である」という名言が飛び出てくるのではあるが、「新しいもの」への真の理解は無いように思える。
バリバリ右翼の徳富蘇峰を兄に持ち、政府要人に知り合いも多い、有名人の蘆花を弾圧するよりも、「ガス抜き」として利用する方が利用価値がある。政府がそう考えたとしてもなんら不思議はないだろう。
ワイドショーで、多くの評論家が、政府に批判的なことを言っている。蘆花の文章は美文である。惚れ惚れする。評論家の意見は玉石混交で、多すぎてわけがわからなくなる。
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2017年9月6日読了
2011年11月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中野好夫がなぜこの人にこだわるのかわからなかった。ぼくは大杉栄ブームに乗ってこれを読んだのだが、あまりの文章の見事さに久しぶりに膝を打った。
一貫している論理は暴力の連鎖をいかに断つかであった。個人と個人ばかりでなく、国と国との暴力の連鎖をいかに断つかが、司法の治世の要諦であるという観点から、かれは大杉栄の死刑を止めようと天皇に嘆願書を出そうとする。
明治国家がテロリストの活躍によって出来た国であるという生々しい過去が、この議論に説得力を与えている。日本はつねに解脱しつづける運命にあるというのは本当だろう。
中野好夫による評伝が読みたくなった。評伝といえば、北杜夫による斎藤茂吉の評伝も、老後の楽しみに取ってある。
とはいえ、中野さんのコンラッド『闇の奥』はかなりひどいよ。
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