「存在するとは知覚されることである」と云う名文句で有名なバークリの主著。何分バークリは中公バックスの「世界の名著」シリーズにも収録されていないし、著書を日本語で読もうと思ったら知名度に比して仲々難しいので、興味の有る読者は復刊された機会に是非購入しておくことをお勧めする。何せ初版が1958年、改版無しで2013年の時点でまだ10刷なので、余り売れていないものと見える。訳文は時代を考えればまぁ比較的読み易い方だが、原文自体の古めかしさは如何ともし難いので(25歳の時の著作にしては老成している)、認識論的な読み物を愉しみたい読者には、同じ岩波から出ている『ハイラスとフィロナスの三つの対話』の方が面白く読めるだろう。
内容の方はロックの認識論を踏まえつつそれを超克すると云うスタイルで、ロックが区別した第一性質(延長や形状や運動等、物体固有の存在性)と第二性質(色や味等、物体が持つ諸特性)と云う区別を批判し、あらゆる事物は知覚されることによって成立しており、従って「抽象観念」等は不要であって、一切は観念である、等々と続く。ここまでは哲学の教科書になら多かれ少なかれ或る程度載っていることだが、面白いことにバークリはその後続けて、我々の知覚から独立して自然の斉一性を司っている永遠の精神が存在している筈である、即ち神の存在証明を論じている。世界を保証するものとしての神の密輸入は既にデカルトがやっていたことであるが、ここには意外とこの後のドイツ観念論との繋がりが見えて来る様である。やはり古典は一度実際に目を通してみないと、全体像は解らないものだと感じさせる一冊である。
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人知原理論 (岩波文庫 青 618-1) ペーパーバック – 1958/4/5
- 本の長さ292ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1958/4/5
- ISBN-104003361814
- ISBN-13978-4003361818
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1958/4/5)
- 発売日 : 1958/4/5
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 292ページ
- ISBN-10 : 4003361814
- ISBN-13 : 978-4003361818
- Amazon 売れ筋ランキング: - 703,255位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 131位イギリス・アメリカの思想
- - 1,247位西洋哲学入門
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2005年11月29日に日本でレビュー済み
イギリス経験論トリオの二人目、ジョージ・バークリーの主著。
「存在とは知覚されることである(エッセ・ペルキピ)」のテーゼをひっさげて、我々とは無関係に存在する〈物質〉、知覚の向こう側にある〈物そのもの〉を徹底的に攻撃していきます。
目の前の机が、私たちの知覚から独立して存在するということは可能なのでしょうか。
「誰も見ていなくても、この部屋に誰もいなくても、この机は存在するじゃないか」
このように言う人は、誰もいない部屋に机が置いてあるという情景を想像(知覚!)しているのではないでしょうか。
何を想像しようと、どんな状況を考えようと、それは「私が知覚している」「私に現れている」以外の何だというのでしょうか。ドアの向こうに世界なんか無い!?
バークリーの議論は簡明かつ誠実で大変読みやすいものです。訳文に多少の古さを感じますが、それを補って余りある註の丁寧さに感謝です。
「存在とは知覚されることである(エッセ・ペルキピ)」のテーゼをひっさげて、我々とは無関係に存在する〈物質〉、知覚の向こう側にある〈物そのもの〉を徹底的に攻撃していきます。
目の前の机が、私たちの知覚から独立して存在するということは可能なのでしょうか。
「誰も見ていなくても、この部屋に誰もいなくても、この机は存在するじゃないか」
このように言う人は、誰もいない部屋に机が置いてあるという情景を想像(知覚!)しているのではないでしょうか。
何を想像しようと、どんな状況を考えようと、それは「私が知覚している」「私に現れている」以外の何だというのでしょうか。ドアの向こうに世界なんか無い!?
バークリーの議論は簡明かつ誠実で大変読みやすいものです。訳文に多少の古さを感じますが、それを補って余りある註の丁寧さに感謝です。