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カントの人間学 (講談社現代新書) 新書 – 1997/12/18
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無邪気は道徳的ではない――3歳の子供はカントの目からすれば断じて道徳的ではない。それは積極的に悪をなさないが、善をもなさないのである。まったく同じ理由により、性器を切除したために性欲に支配されなくなった男は、性欲を克服したのではない。修道院内に軟禁されている少女たちは、男遊びや飲酒や喫煙に対する欲望を克服したのではない。外形的、物理的にさまざまな欲望を除去あるいは遠ざけあるいは消去することは、いわば幼児の状態を再現することであり、決して真の意味での欲望の克服ではなく、よってこうした状況のもとにおける行為は断じて道徳的ではないのである。道徳的善は、結局自愛に行き着くさまざまな感情の傾きを物理的に抹殺ないし隔離してではなく、こうした多様な感情の傾きを徹底的にくぐり抜けて達成される。――本書より
- 本の長さ230ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1997/12/18
- 寸法10.6 x 1 x 17.4 cm
- ISBN-104061493833
- ISBN-13978-4061493834
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商品の説明
商品説明
そのせいか著者もカントの意向に沿うかのように、「虚栄心について」の章では、だれもが自分には無いと信じたい「嫉妬」という感情に焦点を当てる。大学教授とその同僚のたとえ話により、羨望と嫉妬の違いや虚栄心の働きを嫌になるほどわかりやすく説明した部分には、苦笑しつつもなずくしかない。このように本書では、いわゆる「親切」や「友情」の欺瞞性や「男性にとっての(自らの)容貌」といった、普段は暗黙の了解のうちに語らずに済ませているテーマに、光を当ててしまう場面が頻繁に見られ、いっそ痛快ですらある。
著者はカントへの共感を決して全面には出さず、冷静に筆を進めている。しかし読んでいくうちに、他者との関係性を時には冷酷に突き詰めたカントと、後に自分と周囲の環境との軋轢を露悪的なまでに大胆に描写することとなる著者の姿とが、重なって見えてくる。その意味で、本書は新観点からのカント論というだけではなく、著者の一連の評論やエッセイの原点とも言えよう。(工藤 渉)
著者について
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1997/12/18)
- 発売日 : 1997/12/18
- 言語 : 日本語
- 新書 : 230ページ
- ISBN-10 : 4061493833
- ISBN-13 : 978-4061493834
- 寸法 : 10.6 x 1 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 69,381位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 77位ドイツ・オーストリアの思想
- - 138位西洋哲学入門
- - 782位講談社現代新書
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著者について
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上位レビュー、対象国: 日本
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たとえばカントは親切心は優越感をはらんで、ひとに負債をあたえるという。親切心の発露は、返礼の要求なのだ。無償でない貸し借りが暗黙とむすばれる。たしかにこの認識は欺瞞なきものだろう。だが、それにたいしてセネカならいうだろう。恩恵(の負い目)を受けるものは、それを忘れないとどうじに、「喜んで」受けることによって、すでにお返しをしているのだと。無意識の貸し借りの縛りをしっかりとみすえつつ、すばやくナイフを揮ってでひととき自由に解く、爽昧の気をあたえる。こんな認識=実践の術の鮮やかさこそ、モラリストの言葉にふさわしいのではないだろうか。カントの言動には、こんな含蓄ある趣向への指向がないのだ。
「きみはできる、なぜならなすべきだから」という無償の道徳法則は、それに反することが「できる」無数の功利をはらんだ根本悪によって、権利上はぎゃくに希求「できる」。だがこの反することが「できる」ことの、複雑にこみいってよういに跳躍しがたい魅惑的な悪徳の地平を、身をもって知り生きたかはかなり疑わしい。そのことが道徳法則の定立をそこなわしめるなどとはいわないけれど。
むしろ本書は、カント哲学の研究者にして、のちに「人間嫌い」として偽悪的なモラリストとして登場するにいたる著者中島の、秘された反逆の倫理のエゴのリハーサルのようなものと読むのが意にかなっているのではないだろうか。したがってわたしの読みどころは、モラリストを再定義する「あとがき」となる。
モラリストは壮大な哲学体系をめざさない。大問題には冷淡な関心しかだかない。関心の中心は人間である。崇高かつ卑猥、勇猛かつ臆病、聡明かつ愚劣、情愛あって冷酷な、矛盾して複雑極まりない個々の人間の姿を映しだそうとする。ときとところと状況によっては、人間は英雄にも道化にもなる。
《だが、モラリストがごく自然にこうしたものの見方をするのは、最も切実で重要な問題を見透かしているからである。それは、今生きているすべての人がもうじき確実に死んでゆくという不条理である。この不条理の光のもとでは、この世のすべての事象はほぼ等価となる。国家の存亡にかかわる「大問題」は目前の「些細な問題」程度に姿を縮め、日常の「些細な問題」は世界を揺るがす「大問題」と同等の大きさに拡大される。……モラリストとは生者の視点を刻々忘れようと努め、生きながらに死者の視点で(緻密かつ軽やかに)世の中を観察しようとする者である。》
これは完全に、半分人生を降りつづける知的実践的な術を著述する中島義道のスタンスそのものである。
生涯独身を通したくせに、女性にはそれなりの興味があった、にもかかわらず、女性蔑視のことばかり言う・・・・・
昼食は和気あいあいと友人・知人を招いて、何時間もかけて、楽しく、美味しく、ただし、食事の場では哲学の話は一切ご法度・・・・・
極貧の幼少時から青年期・・・・・当時のことは一切語らず・・・・何が彼をそうさせたか・・・・
中島センセの筆が冴える、面白カントの人間考察。
ドイツ観念論哲学はわきに置いて、関東炊き(カント炊き)でも突きながら、お気楽に・・・・・
あなたが、哲学科の出身、あるいは哲学書の愛読者で、カントについての解説書を読んだことがあるのでしたら、カントに対する確個としたイメージができあがっているに違いない。しかし、そのイメージはなんでもまつりあげることが好きな世のカント学者どもが勝手にひねくりこねあげたニセモノです。この本は、カントの実体にせまると共に、第一章エゴイズムについて、第二章親切について、第三章友情について、第四章虚栄心について、第五章生活のスタイルについて、第六章容貌について、第七章女性についてという構成で、カントの哲学を理解するための手ほどきがしっかりとしてあります。
はじめて哲学書を読む方でも非常に分かりやすく、この1冊で考え方、見方がかわるかと思われます。
果たして本書を読んだ後、どれほどの人が、あの分厚い批判書に手を伸ばし、かつ読了までの努力をしようという気になるだろうか。著者が、もしカントの著作を文化的に重要と考える人であれば、「カントを読む気にならなくなってしまった」見えない読者数を文化的な損失数と考えなくてはいけないと思う。
(前半に、本書がカントの理解レベルが低い人に楽しんでもらえると思う旨記載されていますが、むしろ、カントの哲学の雄大さを充分に理解した人が、雑学として読む本だと思います。)
論理的エゴイストの究極形として叙述されている対象者は、どこに問題があるのでしょう。著者自身の決めつけ(独断?)以上の説明がなされておらず、おそらく著者がこのような人を知人に持ち、自分の内面で一方的な憤りを募らせてたのかもしれませんが、その事をカントの名前を使った著作を道具として吐き出すのは見苦しく、また全体的に、一方的な情報のみが羅列されていき、カントに対するゴシップ以上の何があるのか、あとがきを読んでもきちんと説明がされておりません。
カントは哲学者なので、彼の哲学に対する批判をするべきであり、プライベートに土足で介入して何かを暴き出そうとした事について、著者は一体何を本書で達成したかったのでしょうか。
あまりにも完成度の高い仕事をした先人に対する羨望と嫉妬から、それをこき下ろして自身の卑小を慰めるために書かれたものとしか理解できません。
自分は、特にカントの信奉者ではありませんが、このような本に対して嫌悪感を感じました。(著者の書く、モラリスト度の高い人間でもありませんが)
石川文康さんの「カント入門」を読んだ後に手につけたのですが…、一人の人生の心の模様を深くまで見抜いて追っているところが非常に面白かったです。
「純粋理性批判」をはじめとする、彼の緻密な理論からは、人間としての尊厳を強く持っていたような印象を持っていました。
超越論的観念論にしろ、定言名法にしろ、執念深く真理を追い求めたような人間でなければ達しえないような境地だと思います。
が、ある意味で神経質なまでにそういった哲学を追い求めたのは、彼の不遇な生い立ちから、「独りで生きる」ことに慣れてしまったが故の彼の美学だったのだなと伺えました。
猜疑心が強く、虚栄心も強く、生涯女性ともまともに縁を持たず…とだけ聞くとあまりにも不幸な感じを見てしまいますが、しかし、彼の著作からは世界や人間に対する鋭い視点や直観が読み取れるので、くカントはその分自身の哲学にエネルギーを全てつぎ込んだのでしょう。
実際に、現代の本屋にも並び、後世の私たちにも届くような形で…。
カントは友人との付き合い方が冷淡だったとか、カントの顔は不細工だったとか、彼は若い頃極貧で苦労したのでそれが哲学にも現れているとか、熱烈に彼を支持する若者の手紙を無視し続けたエピソードだとか、結婚した事も赤ん坊を育てた事もないのに知識だけで子育てを尋常じゃないほど生き生き語っていて笑えるとか、そんな話の塊である。が、これが非常に読んでいて面白い。お硬い哲学書などには書いていない知らないエピソードばかりだったのでカントの新しい側面がかいま見れて有意義だった。特に子育てのエピソードが印象的でツボにはまった。とはいえ「カントって誰」とか「カントの個人的な性格なんてどうでもいいよ」という人にはとことんどうでもいい本であろう事は言うまでもない。まぁそもそも、そんな人は本書を手に取ったりもしないだろうが。
伝記などでは全然ないのだが、紹介されるエピソードが幼少のものから死の時まで揃っているので全部読むと結果的にカントの生涯を一から十まで知ったような気になる。その意味では少し評伝的でもあるのかもしれない。カントの人間学というより、他の方も言うように「人間カントについて」の本。