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反歴史論 (講談社学術文庫) 文庫 – 2015/4/11

3.7 5つ星のうち3.7 7個の評価

「証言」の真偽という問題は、今も世間の感情を刺激し、「歴史」をめぐる激しい闘争を生み出し続けている。誰一人として歴史から逃れることができない人間が、歴史の支配から自由になることはできるのか。数々の著作を送り出してきた著者が、哲学、文学、映画、精神分析、民俗学など、多彩な分野を縦横無尽に駆け抜けながら、繊細かつ大胆に思考する。今こそ読まれるべき名著が、書き下ろしの新稿を加えて、学術文庫に登場。


「従軍慰安婦」報道をめぐって生じた「『朝日新聞』問題」に見られるとおり、今も「歴史」や「歴史観」は世間に強い感情を呼び起こし、激しい闘争の原因になっている。文化も文明も技術も、制度も慣習も言語も、今あるものはすべて過去に作られた歴史の産物であり、歴史から完全に逃れて考え、生きられる人など一人もいない。
本書は、この歴史による支配がいかにして起きるのかを解明し、歴史から自由になることはできなくても、歴史の支配から自由になる可能性はあることを示そうとするものである。
「従軍慰安婦」問題にも明らかなように、いつからか歴史は「記憶」の問題として考えられるようになった。当事者の「証言」の真偽が問われるのはそのためだが、これは歴史の支配から自由になろうとする運動だったと著者は言う。「歴史は、ある国、ある社会の代表的な価値観によって中心化され、その国あるいは社会の成員の自己像(アイデンティティ)を構成するような役割をになってきた」。国や社会によって決められたのではない歴史を生み出すために個人の記憶が重視されたが、その結果、国や社会に記憶の真偽をめぐる闘争が、つまりは歴史をめぐる新たな闘争が生み出されたのは、何とも皮肉なことである。
「古典とは、この言葉の歴史からみても、反歴史的概念である」という小林秀雄の言葉を出発点にする本書は、歴史を軽々と超える古典作品を生み出した人間が、歴史に翻弄される存在でもある、という二重の事実を繊細かつ大胆に思考していく。ニーチェ、シャルル・ペギー、ジャン・ジュネ、レヴィ=ストロースといった多彩な作家を取り上げ、哲学、文学、映画、精神分析、民俗学を横断しながら展望されるのは、真に歴史の支配から逃れて考え、生きる可能性にほかならない。戦後70年を迎える今、好評を得た名著が書き下ろしの新稿を加えて、ついに学術文庫に登場。

商品の説明

著者について

宇野 邦一
1948年、島根県生まれ。パリ第8大学哲学博士。立教大学名誉教授。専門は、現代思想・映像身体論。主な著書に、『アルトー』、『ドゥルーズ』、『ジャン・ジュネ』、『破局と渦の考察』、『吉本隆明』など。主な訳書に、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』、サミュエル・ベケット『見ちがい言いちがい』など。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2015/4/11)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2015/4/11
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 304ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4062922932
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062922937
  • 寸法 ‏ : ‎ 10.5 x 1.3 x 14.8 cm
  • カスタマーレビュー:
    3.7 5つ星のうち3.7 7個の評価

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宇野 邦一
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カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2015年7月10日に日本でレビュー済み
比較的最初の部分にある一節に惹かれて全部通読。歴史によって分節されているものは、生成する出来事そのものの細かい襞を消して、目に見えるスケールに変形してしまう。歴史化されない出来事は、確かに「生きられた」にも拘らず、消えていってしまう。言葉になる以前の何かや、対自化することもなく生きられた時間の多くのことを、ある瞬間髣髴として、ハッとなることがある。そういう世界を拾って書き留めていく作業は、柳田国男、レヴィ・ストロース、小林秀雄、ニーチェ、フーコー、レヴィナスが、知っていたことだ。彼らは似ても似つかぬ方法と作品の作者であるが、著者の語るモチーフを受け止めていくと得心するままになる。本書を読んで、私自身の馴染めない哲学者ドゥルーズのモチーフを確かに触れることが出来たような気さえした。差異や反復の意味合いが、決して高踏的ではなく、普通の心の世界であることも感じることができた。本書の良さは、語る中で多くの文人たちの諸著作に触れながら語ってくれるが、その作品への入射角がとても見事で、未読のものは勿論、既読のものももう一度読んでみようと思えてくる。「本の読み方」というより、本への接し方、本への出会い方をよく知っている人に思える。少し気になったのが、行き届いた配慮の著者なのだが、どうして、語りたいエッセンスを語る際に、「反歴史」を述べなければならなかったのか。私にはその必要は、「トリガー引き金」以上のものはないと思った。歴史とは、概ね政治史であって、勝者の歴史であることは言を俟たない。だからと言って、その中に、一回性、文字化できない何か、反復としてしか現れないこと、等々、見出せないわけではない。「日本書紀」やヘロドトスの「歴史」を読んで、「反歴史」の批判すべきターゲットだと言うのであれば、およそ分野を問わず、すべての書物は批判の対象になるだろう。結局、批判すべきターゲットとしての「歴史」の現れ方とは、むしろ読者のスタンスの問題ではないだろうか。歴史が良いとか悪いとか、の話ではないだろう。小林秀雄や柳田国男といえども、「生成する細かい襞」を語っているだろうか。「常民」とか「美を眺める心」とか彼らが語る「方法論」には、世俗化されたヘーゲルの「弁証法」と同じほど硬直的なものを感じる。いくら語り口をニーチェに似せても事情は変わらないし、ニーチェその人が、まさに、「歴史」主義者だとも言えるのである。或るものを「批判すべきターゲット」として定立して語り始めたその時から、私には、その言説こそが、「批判されるべきターゲット」と同じように、パターン化した悪しき「歴史」化しているように思える。
12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年11月3日に日本でレビュー済み
小林秀雄の有名な一節”母が死児を思い出すように”歴史をとらえる、出来事を”記憶するだけではいけないのだろう、思い出す事が必要なのだろう”という風にとらえる、この小林の発言をライトモチーフに多くの思想家の言葉の中の共鳴する一節を思い出していく。そういう本である。レヴィ・ストロースの見いだしたブラジルの無文字社会はまさに反歴史的だろうし、柳田国男の常民も一度限りの重大な事件が織りなす歴史とは無縁な持続する何かだ。

続いてフロイトの無意識が召還される。無意識がいったん見いだされてしまうと、歴史を意識された行為の連続としてとらえる事が不可能になるだろう。また、映画の発明が無意識との関連で論じられる、つまり映画はあまりに情報量の多い視覚芸術であって、画面に映る全てを享受する事が原理的に不可能なのだ。ここでは、ベンヤミン、ドゥルーズ、小林が召還される。映画は、あるいは視覚イメージは時間感覚を屈折させ、その意味で本来的に反歴史的なのだという。この辺りは映画論でよく見かける分析だが、要領よくまとまっていた。

レヴィナスの言う”歴史を作ってきたのは、歴史からの自由の意識だった”というところから、議論が展開する。彼によれば、ユダヤ教には時間についての還元不能な特権的な瞬間があるのだという、それがメシアの到来なのだ。その特権的な時間はカタストロフと呼ばれることになる。

文庫版で付け加えられた最終章では、反歴史的な歴史の例として大岡昇平のレイテ戦記が参照されている。レイテ島でいかにして7万の日本兵が死んでいったのかを微細に記述する事こそ、反歴史的な歴史ではないのか。

以上ではとても要約しきれない分析が大量に成されている。ニーチェ、カント、ヘーゲル、ランボー、バタイユ、網野、三木清、等々だ。しかし全体を貫くのは冒頭で紹介した小林の思想ではないかと思われる。それを深めるというよりは、小林の上げた声を多くの思想家にも見つけ出すのが本書で目指された事なのではないか。

また、多くの引用があるが、その著者の一部の著作に親しんでいれば理解できるが、そうでないと引用文が何を言っているのかすらよく理解できなかった。評者に取っては、レヴィナス、バタイユ等がそうだった。だからある程度の知識を要求される本だ、しかし本書に興味を持つ読者はある程度の知識を持つ人が多いだろうから、逆に言えば、本書は哲学読書案内として有用だ。
10人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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