これは、南 直哉(じきさい)師の ”考える” 仏教入門といえます。 わたしはこう考える…、と繰り返し述べておられます。 仏教って、思想なんですね。 そして、その思想に確固たる定義はないといえそうです。 いわば、仏教に入門するための哲学エッセィといっては失礼か…。 何冊か師の著作を拝読してきましたが、ナゼここで”入門”、、、なのか、なんとなく分かったように思います。
「おわりに」で述べておられるよう、本書は現時点での直哉師による仏教思想の総括といえます。 章立てとして仏教の主要な”考え方” は網羅されてます。 フッサール(現象学)やウィトゲンシュタインになじみのある読者にはページが進むと思います。 そうでない読者には、かなり難解かも、、、。 ただし、文章は端正で小気味よく論理的で、分かりやい。 とはいえ、言葉は難解、理論は複雑、ってとこでしょうか。 ストイックに脳ミソ「こんがらがっちっち」したい向きには、極上の内容かと思います。 師の思惟の樹海に飛び込み、ときに迷子になりながら毎ページ噛みしめていただきたい。 でもご安心を。 いつでも脱出できる樹海ですから。
宗教の使命は、「自分と世界が何のために存在するのか(へのソリューションの提供)である」、というのです。 しょっぱなからガツンときますね。 人間は、その根拠を知る圧倒的な欲望をもつからである、と。 後のページでは、その根拠が、「無常」や「縁起」、「空」の思想、あるいは悟り、涅槃、戒律の意義をもとに淡々と語られます。
たとえば、ナーガールジュナ(龍樹)の縁起思想を引きながら、わたしたちが「存在する」というとき、それは「妄想」であり言語作用なのだといいます。 縁起を空、と捉えるってことでしょうか、、、すでにこんがらがっちっち、ですが、なぜかナルホドです。 ちなみに、小生は、「龍樹」は難しすぎて、途中で挫折したままですが、、、。
仏教の重要な教説は、無常・無我・無記・縁起であり、「輪廻」説は理論的に仏教思想にそぐわない(不要だ)、と批判的です。 たしかに、それが社会秩序を支配するとき、たとえばインドのカースト制度や、最近ようやく政府が謝罪したハンセン病の強制隔離など、歪んだイデオロギーとなり得るわけです。 そこから、まさしく「解脱」すべき、との師の主張はシニカルでもあり、そろそろ仏教入門から、仏教思想にもとづいた社会批判の雰囲気となってきます。
「無明」とは、言語や自意識の作用であり言語が物事を実体と錯覚させる、という意味であり、その発見がブッダの悟り、というわけですが、たしかに辞書によると、それは「迷妄」と説明されます。 そこに言語や意識の作用を絡ませて説明するところが、ちょいアカデミックな直哉師らしさ、といえそうです。
「出家」とは、自己の実存様式を改造すること、、、なんですね。 要は、いままでの生き方を否定し、別の生き方に転換する作業、というわけです。 同様に、「帰依」とは、自己の改造・再編成、つまり自己の意識的な再発見を実現させる仏教手法、ってとこなのでしょうか。 読者がどう読むかは相応のトレランスがありそうです。
さて、P146あたりから「戒律」の思想的意義への論考が展開されますが、このあたりからは仏教入門ではなく、仏教”応用”へとギアがシフトアップされてきます。 ある意味、圧巻の論考であり、しかし実に明快で分かりやすく、ページが進みます。 検討すべき3つの戒律を、殺さない・盗まない・嘘つかない、とします。 道徳は共同体の秩序の問題、その判断根拠への問いが倫理だと、まことにズバリです。 そこにこれら3つの戒律の根拠の考察が展開されます。
倫理を問うなら、それを宗教が受け止めなければ存在理由を失うとし、具体的な社会問題と照らし合わせ、3つの戒律に、無常・無我・縁起の思想の立場で思考展開されます。 いわゆる、なぜこんな…?と報道されるような猟奇的な無差別殺人事件の動機について、論破してゆくのです。 「他者」との関係から「自己」を起こせなかった人間のありかたを、それら殺人鬼から読み取ります。 他者から課された自己、という実存構造を、自己への肯定や承認という過程を通じ受容できなかった、と。 その構造の重圧からの解放には、他者を抹消するか、自死しかない、と喝破します。 詳細は本書にあたっていただきたいのですが、よく聞く「自己肯定感」という、教育資料に出てきそうな用語の本質を、仏教思想をもとにきちんと具体化しています。 ほんの数ページですが、圧倒されました。 熱いです。
本書は、何をどう理解した、と板書するような内容とはいえません。 入門用の概論でもありません。 前述のとおり、むしろ仏教応用です。 仏教思想を社会においてどう生かすのか、、、それが南 直哉師の、現時点における仏教思想の総括とともに具体化されており、再読、精読したい一冊でした。
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仏教入門 (講談社現代新書) 新書 – 2019/7/17
南 直哉
(著)
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普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。
ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
私はこれまで、仏教の思想や実践について、何冊かの本で自らの解釈を述べてきてはいるが、それを全体的にまとめて読める書物は出していない。そこで、ここらあたりで、自分の仏教に対する考え方を見渡せるものを作っておきたいと思った、というのが本書上梓の正直な理由である。
しかし、これは要するに自己都合である。そこで、あえて読者の益になりそうなことを述べさせてもらえば、仏教を「平たく」解説する本などは、ずっとふさわしい書き手が大勢いるはずで、私に書かせても役にも立たないし、読んで面白くもないだろう。
さらに言うと、およそ「平たい」記述など、私に言わせれば幻想にすぎない。すべては所詮書き手の見解である。
ならば、本書ではその「見解」の部分を極端に拡大して、読者の興味をいくばくか刺激し、仏教をより多角的に考える材料を世に提供できたなら、そのほうが私の仕事としてふさわしいのではないか。こう愚考した次第である。
(「はじめに」より)
普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。
ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
私はこれまで、仏教の思想や実践について、何冊かの本で自らの解釈を述べてきてはいるが、それを全体的にまとめて読める書物は出していない。そこで、ここらあたりで、自分の仏教に対する考え方を見渡せるものを作っておきたいと思った、というのが本書上梓の正直な理由である。
しかし、これは要するに自己都合である。そこで、あえて読者の益になりそうなことを述べさせてもらえば、仏教を「平たく」解説する本などは、ずっとふさわしい書き手が大勢いるはずで、私に書かせても役にも立たないし、読んで面白くもないだろう。
さらに言うと、およそ「平たい」記述など、私に言わせれば幻想にすぎない。すべては所詮書き手の見解である。
ならば、本書ではその「見解」の部分を極端に拡大して、読者の興味をいくばくか刺激し、仏教をより多角的に考える材料を世に提供できたなら、そのほうが私の仕事としてふさわしいのではないか。こう愚考した次第である。
(「はじめに」より)
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2019/7/17
- 寸法11.6 x 1 x 17.4 cm
- ISBN-104065164710
- ISBN-13978-4065164716
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2019/7/17)
- 発売日 : 2019/7/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 208ページ
- ISBN-10 : 4065164710
- ISBN-13 : 978-4065164716
- 寸法 : 11.6 x 1 x 17.4 cm
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2019年7月27日に日本でレビュー済み
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2020年6月9日に日本でレビュー済み
タイトルは「仏教入門」ですが、決して入門ではありません。
仏教用語は基本的なものしか出ていませんが、
言葉や言い回しが難しいです。
南さんが、自分なりに考え直して、自分の言葉で仏教を示した本です。
輪廻を正面切って否定していたり、挑戦的なところが満載です。
縁起に関して「行為主義的縁起説」を提唱さてた事は、全面的に賛成です。
この「行為主義的縁起説」もそうなんですが、
「教義の建前はこうだけど、本当の意味合いはこうだよなぁ…」って
皆(僕だけ?)が思っていたりする事を、きちんと考えて語ってくださってます。
この本のように自由に考える仏教があっても良いと思います。
各宗派や、学校でちゃんと仏教を習った方にはお勧めです。
読むのに、3時間40分かかりました。
仏教用語は基本的なものしか出ていませんが、
言葉や言い回しが難しいです。
南さんが、自分なりに考え直して、自分の言葉で仏教を示した本です。
輪廻を正面切って否定していたり、挑戦的なところが満載です。
縁起に関して「行為主義的縁起説」を提唱さてた事は、全面的に賛成です。
この「行為主義的縁起説」もそうなんですが、
「教義の建前はこうだけど、本当の意味合いはこうだよなぁ…」って
皆(僕だけ?)が思っていたりする事を、きちんと考えて語ってくださってます。
この本のように自由に考える仏教があっても良いと思います。
各宗派や、学校でちゃんと仏教を習った方にはお勧めです。
読むのに、3時間40分かかりました。
2020年4月13日に日本でレビュー済み
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他の仏教関連の書籍とは異なり、南氏の”考える”仏教について徹底的に書き抜かれた本です。
南氏の著書は他にも読んできた私にとって、南氏が語りの前提としている”仏教”の世界を体系的に見渡せるのとても良い地図を得ました。
他の方も書かれていますが、広く伝播している学問としての仏教を体系的に学びたい人には不向きかもしれませんが、つまるところ仏教が何を救済するのか、我々が過ごしている現実世界において何を与えてくれるのか、という仏教を学んでいくうちにぶつかる諸問題に対して南氏の切り口で迫ることができる良書です。
南氏の著書は他にも読んできた私にとって、南氏が語りの前提としている”仏教”の世界を体系的に見渡せるのとても良い地図を得ました。
他の方も書かれていますが、広く伝播している学問としての仏教を体系的に学びたい人には不向きかもしれませんが、つまるところ仏教が何を救済するのか、我々が過ごしている現実世界において何を与えてくれるのか、という仏教を学んでいくうちにぶつかる諸問題に対して南氏の切り口で迫ることができる良書です。
2019年7月26日に日本でレビュー済み
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南師は次のように書かれている。「私は、輪廻説は仏教に不要であり、捨てるべきだと思う。(中略)だいたい、終始一貫した同一性を保つ「霊魂」みたいな、アイデンティティーを保証する何ものかが『生まれ変わり死に変わりする』という言い方・考え方は、どう見ても無常・無我・空・縁起という仏教のキー・コンセプトに背反する」(81頁)と。
それは、南師の仏教解釈の大変な誤りであろうと思う。衆生が世々に輪廻するのは、「霊魂」のようなものが来世に転生していくのではない。南師は衆生が、どのように輪廻していくのかという、仏教の法理をよく知らないので、このように仏説を否定する我見を発表して、間違われたのだと思う。
そもそも衆生は、色・受・想・行・識という物質面と精神面とを合わせた五蘊から成り立っている。従って私たちも、その五蘊からなる人間である。そしてその五蘊には「霊魂」のような「我」というものはない。この五蘊について、釈尊は次のように無常であると説く。「応(まさ)に色は無常なりと観るべし。(中略)是(かく)の如く受・想・行・識も無常なると観るべし」(『雑阿含経』巻1)。つまり五蘊からなる私たちは、誰もが無常であり、従って無我(霊魂などは無い)である。このことを知った上で、以下の通り輪廻の実際を説明していこう。
その五蘊からなる衆生が死ぬと、従来の五蘊を捨てて、今度は中有(ちゅうう)の五蘊に転移するのである(中有は肉眼の者は見えず、正常な通力者はこれを見る)。中有は次の(来世)の生処を求めて活動する。すなわち説いて云く。「其(そ)の人の命すでに尽くれば、身根・識は滅して、すなわち中有を受く。(中略)神(たましい=識)は人身を離れて中有に住し、五陰(五蘊)悉く具(ぐ)して乏少する所無し」(『修行道地経』巻1)。つまり人が死ねば中有の身を受け、その中有は、中有の五蘊を具えるのである。そしてその五蘊には、「霊魂」というような我は存在せず、中有の五蘊、つまり中有の心と体を持ち、これは来世に生まれるまでの、一時的な中継ぎの生命体なのである。
釈尊は次のように中有の活動の一端を説いている。「すべて諸々の中有は、皆神通を具え、空に乗じて去(ゆ)き、猶天眼の如くに速く(次に)生まれる處(ところ)を観る」(『大宝積経』巻56)と。このように.中有は活発に次の生処を探し求めて、忙しく活動するのである。その中有は、衆生の死後49日も経てば、次の生処が決まる。その中有は、前世からの業(善業と悪業の全て)と、煩悩とを引き継いでいて(これは現在の我々も同じである)、そして次の母胎に入っていくと説いている。そのことを釈尊は、「三事和合してこの身を受くることを得。一には父、二には母、三には中陰(中有のこと)なり」(『涅槃経』巻34)と説いている。
そしてその中有が、新たな母胎に入って、来世に誕生するのである。つまり畜生に生まれる中有は畜生の母胎に入っていくし、地獄に生まれる中有は、母も家族も介さずに、大苦の地獄中に化生(けしょう=直接独りでそこへ行く)して行く。そのことを説いて云く。「有情は死しおわれば、或いは悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に生じ、或いは人中に生じ、或いは天上に生じ、或いは般涅槃(はつねはん=成仏)す。(中略)もし中有なくんば、誰かよく連続せんや」(『阿毘達磨大毘婆沙論』巻70)。ここまで解説すると、釈尊が説く輪廻説が、「霊魂」も無くして転生していく道理が、何の矛盾もなく理解されるであろう。
結局、今世の五蘊も無常・無我・空であり、それはまた縁起するものであり、また死後の中有も「霊魂」などは存在せず、その五蘊も同じく無常・無我・空で縁起するものであるから、南師が述べる、「輪廻説は無常・無我・空・縁起というキー・コンセプトに背反する」という主張が、全く見当違いであるということが理解できたであろう。輪廻説は南師のように「霊魂」を考える必要もなく、それは堂々たる仏説であって、真実義であり、南師のような一人の凡夫が、仏が説く輪廻説を否定できる筋合いのものではないことを思い知るべきである。
釈尊が説いて云く。「日月星宿地に堕(お)つべくも、山石地より空に飛ぶべくも、海水淵深枯れしむべきも、仏語決定(けつじょう)して虚妄なし」(『光明童子因縁経』巻2)と。仏説に一切の嘘も誤りも、また不合理も無いのであるから、衆生見・我見・邪見を捨てて、伏して仏説を信受すべきである。
南師のように、自身の法門不解と、経文不信とを棚に挙げて、仏説をねじ曲げてはならないのである。仏教を語る場合には、仏の説く通りに論じるべきであり、仏説と違う言説を、それを仏教と名付けることはないのである。
総じてこの人の仏教論は信用するに値しない。
それは、南師の仏教解釈の大変な誤りであろうと思う。衆生が世々に輪廻するのは、「霊魂」のようなものが来世に転生していくのではない。南師は衆生が、どのように輪廻していくのかという、仏教の法理をよく知らないので、このように仏説を否定する我見を発表して、間違われたのだと思う。
そもそも衆生は、色・受・想・行・識という物質面と精神面とを合わせた五蘊から成り立っている。従って私たちも、その五蘊からなる人間である。そしてその五蘊には「霊魂」のような「我」というものはない。この五蘊について、釈尊は次のように無常であると説く。「応(まさ)に色は無常なりと観るべし。(中略)是(かく)の如く受・想・行・識も無常なると観るべし」(『雑阿含経』巻1)。つまり五蘊からなる私たちは、誰もが無常であり、従って無我(霊魂などは無い)である。このことを知った上で、以下の通り輪廻の実際を説明していこう。
その五蘊からなる衆生が死ぬと、従来の五蘊を捨てて、今度は中有(ちゅうう)の五蘊に転移するのである(中有は肉眼の者は見えず、正常な通力者はこれを見る)。中有は次の(来世)の生処を求めて活動する。すなわち説いて云く。「其(そ)の人の命すでに尽くれば、身根・識は滅して、すなわち中有を受く。(中略)神(たましい=識)は人身を離れて中有に住し、五陰(五蘊)悉く具(ぐ)して乏少する所無し」(『修行道地経』巻1)。つまり人が死ねば中有の身を受け、その中有は、中有の五蘊を具えるのである。そしてその五蘊には、「霊魂」というような我は存在せず、中有の五蘊、つまり中有の心と体を持ち、これは来世に生まれるまでの、一時的な中継ぎの生命体なのである。
釈尊は次のように中有の活動の一端を説いている。「すべて諸々の中有は、皆神通を具え、空に乗じて去(ゆ)き、猶天眼の如くに速く(次に)生まれる處(ところ)を観る」(『大宝積経』巻56)と。このように.中有は活発に次の生処を探し求めて、忙しく活動するのである。その中有は、衆生の死後49日も経てば、次の生処が決まる。その中有は、前世からの業(善業と悪業の全て)と、煩悩とを引き継いでいて(これは現在の我々も同じである)、そして次の母胎に入っていくと説いている。そのことを釈尊は、「三事和合してこの身を受くることを得。一には父、二には母、三には中陰(中有のこと)なり」(『涅槃経』巻34)と説いている。
そしてその中有が、新たな母胎に入って、来世に誕生するのである。つまり畜生に生まれる中有は畜生の母胎に入っていくし、地獄に生まれる中有は、母も家族も介さずに、大苦の地獄中に化生(けしょう=直接独りでそこへ行く)して行く。そのことを説いて云く。「有情は死しおわれば、或いは悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に生じ、或いは人中に生じ、或いは天上に生じ、或いは般涅槃(はつねはん=成仏)す。(中略)もし中有なくんば、誰かよく連続せんや」(『阿毘達磨大毘婆沙論』巻70)。ここまで解説すると、釈尊が説く輪廻説が、「霊魂」も無くして転生していく道理が、何の矛盾もなく理解されるであろう。
結局、今世の五蘊も無常・無我・空であり、それはまた縁起するものであり、また死後の中有も「霊魂」などは存在せず、その五蘊も同じく無常・無我・空で縁起するものであるから、南師が述べる、「輪廻説は無常・無我・空・縁起というキー・コンセプトに背反する」という主張が、全く見当違いであるということが理解できたであろう。輪廻説は南師のように「霊魂」を考える必要もなく、それは堂々たる仏説であって、真実義であり、南師のような一人の凡夫が、仏が説く輪廻説を否定できる筋合いのものではないことを思い知るべきである。
釈尊が説いて云く。「日月星宿地に堕(お)つべくも、山石地より空に飛ぶべくも、海水淵深枯れしむべきも、仏語決定(けつじょう)して虚妄なし」(『光明童子因縁経』巻2)と。仏説に一切の嘘も誤りも、また不合理も無いのであるから、衆生見・我見・邪見を捨てて、伏して仏説を信受すべきである。
南師のように、自身の法門不解と、経文不信とを棚に挙げて、仏説をねじ曲げてはならないのである。仏教を語る場合には、仏の説く通りに論じるべきであり、仏説と違う言説を、それを仏教と名付けることはないのである。
総じてこの人の仏教論は信用するに値しない。
2019年11月5日に日本でレビュー済み
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今までの仏教を学問的に理解したい人には不向き。仏教を通して現代に生きることを考える人には最適。本書をさして「これは仏教ではない」という批判をする人も多いが、その人のいう「仏教」がはたして現代人になんの貢献をしてきたのか。葬儀場にベンツで乗り付けてきて高額な金を巻き上げていく坊主を生み出しただけではないか。仏教とは現代人にとってどのような在り方をすべきなのか。ラディカルに見える主張には著者の生きることに対する真摯な問いがある。既成の仏教書が現代を生きる知恵になりきれていないと感じる人にとっては名著である。
2019年7月26日に日本でレビュー済み
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仏教書はどれも体裁が似ている。八正道や十二因縁などの説明に終始して、結局仏教とは何なのかが全く理解できない。著者は本書で明確に仏教の本質を説く。それは「ブッダの悟りは無明の発見(言語による物事の実体視という錯覚)」という点だ。そして坐禅などの身体技法を用いれば、言語機能の停止と自意識の溶解を引き起こすことで、空や縁起と呼ばれる悟りの世界を体験させることができるという。後半の実践篇には、坐禅のやり方について写真入りの解説があるが、これほど細かに技法を開示した本は見たことがない。また、著者が随所で歯切れよく意見を述べている点もユニークで、例えば「輪廻説は仏教に不要であり、捨てるべき」といった主張は珍しいのではないか。わかりやすい仏教の入門書としておすすめの本だ。
2019年10月17日に日本でレビュー済み
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直哉さんらしいさっぱりとした中に思慮深い書き方に、一気に引き込まれて行きました。