演技、とは一言で言っても、舞台の上から、お客に観てもらうもの、から、何気ない日常のコミュニケーションで相手に対して行うようなものまで、様々です。人間は一生演技から逃げられない、のかもしれません。この本を読んで、自分の中にある、自然な、あるいは、恣意的な、演技がどのように機能しているのか、人生で初めて深く考えさせられるきっかけを与えられました。
演技、に真正面から向き合い、妥協することなく掘り下げられた、非常に貴重で重要な考察。
この本が日本人によって書かれたことはとても誇らしい気がします。
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演技する精神 ペーパーバック – 1983/3/1
山崎 正和
(著)
- 本の長さ281ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1983/3/1
- ISBN-104120011712
- ISBN-13978-4120011719
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1983/3/1)
- 発売日 : 1983/3/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 281ページ
- ISBN-10 : 4120011712
- ISBN-13 : 978-4120011719
- Amazon 売れ筋ランキング: - 616,382位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 39,592位アート・建築・デザイン (本)
- - 55,455位エンターテイメント (本)
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5 星
提起された課題のうち
「われわれはここで、演技と現実行動の関係を問はなければならないのであり、これまで『模倣』とか『再現』とか『描写』と呼んで来た、あの漠然たる概念の内容を再吟味しなければならなくなった、といへる。 模倣といっても再現といっても、もしそれが現実の原型の複写として成立するものなら、とうてい、人間がそれを見て喜ぶ積極的な理由も考へられず、忙しい人間があへて模倣を試みる必然性も考へられない。 当然、演技は現実の行動に何らかの修正を加へ、原型に似て、しかもそれとは異質の行動として成立するはずであるが、いったいその修正はどういふ内容を持つかといふのが、いまやわれわれの問題なのである。」
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上位レビュー、対象国: 日本
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2014年11月23日に日本でレビュー済み
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2023年1月3日に日本でレビュー済み
〇 劇作家である著者であるから演技論が展開されるのかと思ったらそうではない(もっとも著者は「いいえ、これは紛れもなく演技論ですよ」と言うかもしれないのだが)。演技と通常行動との比較検討を通じて、人が行動しているときの心的状態はどのようなものかを解き明かしてみようという企てである。なんとも志が高い。
〇 著者は、まず演技と言うものは人間生活で広く観察されるのだがその構造は十分に解明されてない、そこで演技を手掛かりに人間の精神活動(これはすなわち文化である)に迫ってみたいと本書の意図を明らかにする。演技をしているのは芝居の役者だけではない。化粧する人、カフェのボーイなどの職業人、家庭の父・母・子などとして振る舞う人には第三者の目をどこかで意識しているところがあってその意味で幾分かは演じているのだ、と言われればなるほどそうかと思う。
〇 それでは演技とはどんなものなのかというと、通常行動が相手と相対のやり取りであるのに対して、演技は抽象的な第三者の視点の存在を前提にしているところが違うという。したがって通常行動する人はひたすら目的を達成しようと考えているが、演技する人は目的達成を横に置いて行動の過程と手続き(つまりはどう見えるかということ)に注意を払うことになる。自身が周囲をとりまく状況の一部であることを承知しつつも状況(第三者たち)をなんとか操作しようとしているわけだ。
〇 このあたりはなかなか難しいのだが、通常行動者はまだ達成されていない目的のことしか眼中にないのに対して、舞台の役者となるとその先の結末まで知ったうえでそれでも懸命に現在を演じているという違いをさしているようにも思える。
〇 さてこうした議論がどんな結論を導くのか。通常行動者は、他人とは無関係に自身の目的に邁進する合理主義者であり、「われ思うゆえにわれあり」の西欧的な固い「自我」がこれに似ている。これに対して、演技する人は、他人との関係のなかで世界のリズムを感じながら調和を図って生きてゆく柔らかい「自我」であり、他の人々との関わり合いのなかで自身の役割も意味もあると自覚している。著者はわれわれにとってはこうした柔らかい自我を生きてゆくのが望ましいのではないかと言っているのだと理解した。裸の自我と自我とがぶつりあって平和な世界ができるわけがないではないか、お互いの役柄を認めあい理解し合えばそれで十分ではないか、それ以上は望み給うなということである。
〇 このように読み応えのある議論が展開されるのだが、全5章のうち第3章と第4章の抽象的な議論はわかりにくかった。著者の明晰でなおかつゆったり進められる余裕たっぷりの文章ゆえに、あまり苦痛を感じず行き詰まることなく読み進めることができた。すばらしい文章家だと思った。
〇 余談ながら、著者が古今東西の演劇論のなかでも世阿弥の考え方を高く評価して数多く引用しているのがおもしろかった。世阿弥は、演能の要諦は客観的な展望と主観的な没入のバランスを程よく取るところにあると言う。つまり状況を冷静に展望しながら「似せる」努力と対象に「なり切る」没入との双方が必要だということだ。そして、演者は会場を支配する気分を取り入れつつ最後は観客を自分の序破急のリズムに引き寄せれば良いのだというのだが、その前提として自然にも人の世界にも序破急のリズムが内在しているという。14世紀の人がこんな議論をしていたのだ。
〇 著者は、まず演技と言うものは人間生活で広く観察されるのだがその構造は十分に解明されてない、そこで演技を手掛かりに人間の精神活動(これはすなわち文化である)に迫ってみたいと本書の意図を明らかにする。演技をしているのは芝居の役者だけではない。化粧する人、カフェのボーイなどの職業人、家庭の父・母・子などとして振る舞う人には第三者の目をどこかで意識しているところがあってその意味で幾分かは演じているのだ、と言われればなるほどそうかと思う。
〇 それでは演技とはどんなものなのかというと、通常行動が相手と相対のやり取りであるのに対して、演技は抽象的な第三者の視点の存在を前提にしているところが違うという。したがって通常行動する人はひたすら目的を達成しようと考えているが、演技する人は目的達成を横に置いて行動の過程と手続き(つまりはどう見えるかということ)に注意を払うことになる。自身が周囲をとりまく状況の一部であることを承知しつつも状況(第三者たち)をなんとか操作しようとしているわけだ。
〇 このあたりはなかなか難しいのだが、通常行動者はまだ達成されていない目的のことしか眼中にないのに対して、舞台の役者となるとその先の結末まで知ったうえでそれでも懸命に現在を演じているという違いをさしているようにも思える。
〇 さてこうした議論がどんな結論を導くのか。通常行動者は、他人とは無関係に自身の目的に邁進する合理主義者であり、「われ思うゆえにわれあり」の西欧的な固い「自我」がこれに似ている。これに対して、演技する人は、他人との関係のなかで世界のリズムを感じながら調和を図って生きてゆく柔らかい「自我」であり、他の人々との関わり合いのなかで自身の役割も意味もあると自覚している。著者はわれわれにとってはこうした柔らかい自我を生きてゆくのが望ましいのではないかと言っているのだと理解した。裸の自我と自我とがぶつりあって平和な世界ができるわけがないではないか、お互いの役柄を認めあい理解し合えばそれで十分ではないか、それ以上は望み給うなということである。
〇 このように読み応えのある議論が展開されるのだが、全5章のうち第3章と第4章の抽象的な議論はわかりにくかった。著者の明晰でなおかつゆったり進められる余裕たっぷりの文章ゆえに、あまり苦痛を感じず行き詰まることなく読み進めることができた。すばらしい文章家だと思った。
〇 余談ながら、著者が古今東西の演劇論のなかでも世阿弥の考え方を高く評価して数多く引用しているのがおもしろかった。世阿弥は、演能の要諦は客観的な展望と主観的な没入のバランスを程よく取るところにあると言う。つまり状況を冷静に展望しながら「似せる」努力と対象に「なり切る」没入との双方が必要だということだ。そして、演者は会場を支配する気分を取り入れつつ最後は観客を自分の序破急のリズムに引き寄せれば良いのだというのだが、その前提として自然にも人の世界にも序破急のリズムが内在しているという。14世紀の人がこんな議論をしていたのだ。
2011年2月27日に日本でレビュー済み
「われわれはここで、演技と現実行動の関係を問はなければならないのであり、これまで『模倣』とか『再現』とか『描写』と呼んで来た、あの漠然たる概念の内容を再吟味しなければならなくなった、といへる。
模倣といっても再現といっても、もしそれが現実の原型の複写として成立するものなら、とうてい、人間がそれを見て喜ぶ積極的な理由も考へられず、忙しい人間があへて模倣を試みる必然性も考へられない。
当然、演技は現実の行動に何らかの修正を加へ、原型に似て、しかもそれとは異質の行動として成立するはずであるが、いったいその修正はどういふ内容を持つかといふのが、いまやわれわれの問題なのである。」
模倣といっても再現といっても、もしそれが現実の原型の複写として成立するものなら、とうてい、人間がそれを見て喜ぶ積極的な理由も考へられず、忙しい人間があへて模倣を試みる必然性も考へられない。
当然、演技は現実の行動に何らかの修正を加へ、原型に似て、しかもそれとは異質の行動として成立するはずであるが、いったいその修正はどういふ内容を持つかといふのが、いまやわれわれの問題なのである。」
「われわれはここで、演技と現実行動の関係を問はなければならないのであり、これまで『模倣』とか『再現』とか『描写』と呼んで来た、あの漠然たる概念の内容を再吟味しなければならなくなった、といへる。
模倣といっても再現といっても、もしそれが現実の原型の複写として成立するものなら、とうてい、人間がそれを見て喜ぶ積極的な理由も考へられず、忙しい人間があへて模倣を試みる必然性も考へられない。
当然、演技は現実の行動に何らかの修正を加へ、原型に似て、しかもそれとは異質の行動として成立するはずであるが、いったいその修正はどういふ内容を持つかといふのが、いまやわれわれの問題なのである。」
模倣といっても再現といっても、もしそれが現実の原型の複写として成立するものなら、とうてい、人間がそれを見て喜ぶ積極的な理由も考へられず、忙しい人間があへて模倣を試みる必然性も考へられない。
当然、演技は現実の行動に何らかの修正を加へ、原型に似て、しかもそれとは異質の行動として成立するはずであるが、いったいその修正はどういふ内容を持つかといふのが、いまやわれわれの問題なのである。」
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