題名からしたら、かなり軽いものかと思ったが、内容はかなりしっかりしている。
西洋哲学の入門書として非常に良い。
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不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書 1409) 新書 – 2019/5/7
古田 徹也
(著)
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- 本の長さ368ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2019/5/7
- 寸法11 x 1.8 x 17.4 cm
- ISBN-104480072136
- ISBN-13978-4480072139
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2019/5/7)
- 発売日 : 2019/5/7
- 言語 : 日本語
- 新書 : 368ページ
- ISBN-10 : 4480072136
- ISBN-13 : 978-4480072139
- 寸法 : 11 x 1.8 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 161,345位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2019年5月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
倫理学ですから、ギリシャ神話や古代哲学、デカルト、アダム・スミス、カント、ヘーゲルに興味があるか否かで別れます。前者は、第Ⅰ部「運」の意味を探る、からそのまま読み進めてください。後者は、「はじめに」から最後の第Ⅲ部道徳と実存ー現代の問題圏へワープし、第10章の「トラック運転手の例」について一緒にお考えください。後ろから振り返る方が、わかりやすいかと思います。ただし、推理小説なら犯人がわかってしまうので面白さは減じるかもしれません。エピローグの締めも「えっ!(そりぁないわ)」となりましたが、冷静に考えてみると人生とはそんなものではないでしょうか。
2020年4月9日に日本でレビュー済み
とても良かったです!
子どものころから自分なりに漠然と考えてきたこと、感じてきたことに形が与えられた気がしましたし、今まで気づかなかった新たな視点も得られました。読みたい本もできました。
新書としては分厚いほうかと思いますが、言葉の定義から始まって、古代ギリシャから近代・現代へと、クライマックスに向かって盛り上がっていき、伏線も回収されるかのような興奮もありました。(一方、もうちょっと突っ込んでほしい!と思ったところですっと避けて通るところは惜しい!と思いましたが、別の本を読んでみます!)
道徳と運について考えていくと、人間とはどういう存在なのか、に至るというのは(表現が平たくて申し訳ないです!)、個人的な実感としてその通りだと思いますし、筆者の文章に力があると感じました。こういう観点からさらにもっと深く考えていきたいと思います。
最後まで読むと、”不道徳的倫理学”というタイトルの意味がより伝わってきて味わい深いです。
とにかく良い本でした!
とはいえ、私の頭では到底理解したとは言えないので、また繰り返し読んでみようと思います。
子どものころから自分なりに漠然と考えてきたこと、感じてきたことに形が与えられた気がしましたし、今まで気づかなかった新たな視点も得られました。読みたい本もできました。
新書としては分厚いほうかと思いますが、言葉の定義から始まって、古代ギリシャから近代・現代へと、クライマックスに向かって盛り上がっていき、伏線も回収されるかのような興奮もありました。(一方、もうちょっと突っ込んでほしい!と思ったところですっと避けて通るところは惜しい!と思いましたが、別の本を読んでみます!)
道徳と運について考えていくと、人間とはどういう存在なのか、に至るというのは(表現が平たくて申し訳ないです!)、個人的な実感としてその通りだと思いますし、筆者の文章に力があると感じました。こういう観点からさらにもっと深く考えていきたいと思います。
最後まで読むと、”不道徳的倫理学”というタイトルの意味がより伝わってきて味わい深いです。
とにかく良い本でした!
とはいえ、私の頭では到底理解したとは言えないので、また繰り返し読んでみようと思います。
2019年6月9日に日本でレビュー済み
本書が扱うのは、道徳における運の問題、悪人がおいしい思いをしていたり、この上ないほど注意して運転していたにもかかわらず突然飛び出してきた子供を轢いてしまったり、といったことをどう考えるかという問題である。
既存の倫理学では運の要素が無視されがちであると筆者は指摘したうえで、運の問題をどのように道徳において考えるべきかが、さまざまな過去の思想家の主張を見ながら論じられている。
前半半分以上が割かれているのが古代の話である。
アリストテレスなども取り上げられているが、神話の話もかなり長いという印象である。
その後ストア派とその影響が触れられていく。
このあたりの話は、ストア派に対してはやや批判的なコメントもあるが、基本的にひたすら「この人はこういう風に考えてこう論じた」と紹介していくだけという面が強く、この辺はもっと短くまとめた方がよかったと思う。
中盤の50ページ弱がアダム・スミスに割かれており、ここはなかなか面白い。
スミスは、道徳判断は原則としては行為者の意図に基づいて判断されるべきだとする公正の原則を支持するが、一方でこの原則から外れて行為の結果に即した判断も人間は行うと考える。それを「感情の不規則性」や「誤った感覚」と呼んでいる。
スミスはこれらを必ずしも否定的にのみ捉えるわけではなく、他者の幸福のためには(意図だけではなく)行動が重要であること、内心を重視しすぎると異端尋問に陥りやすいなどという点も述べており、まさにこうした人間的な感情が「見えざる手」に導かれて理念的な公正の原則に漸近させるのではないかと筆者はまとめている。
最後の6分の1ほどが現代倫理学の論争概観なのだが、読む限り筆者の大元のモチベーションはこの現代における「道徳的運」の論争にあるように見える。
これはネーゲルとウィリアムズが「道徳的運」という同名タイトルの論文を出したことから始まる論争で、道徳における運の要素が活発に議論されているという。
ネーゲルは主流倫理学の流れに合った議論を展開しており、まず道徳に対し「コントロール原則(自分が行為可能な範囲内でのみ道徳的責任は生じる)」を採用したうえで、回避不可能な帰結への自責の念や非難などについて「道徳の問題ではなく認識論的問題である」と指摘する。
つまり、我々の認識能力(あるいは「もしある人がこれをしなかったらどうなったのか」という帰結を見通す能力)が不完全であるがゆえに道徳評価に運の問題が入り込んでいるようにみえるのだ、という理解である。
しかし筆者は、全知の人間はおらず、道徳的評価は実際のこの世界で行わねばならない以上、運を認識能力の問題とみなす議論は意味がないとする。
筆者がより肯定的に言及するのは現代倫理学では傍流ともいえるウィリアムズの議論で、「社会全体の公平な規則としての道徳」と「各人の良き生き方としての倫理」を分け、例えば家族を捨ててタヒチに渡ったゴーギャンは、前者の意味では道徳的でないが、後者の意味で「善く生きようとした」と議論したりしている。
そのうえで、「不可抗力の事故に対する自責」や「事故で生存者が自分を責めること」などは道徳的に妥当な反応であり、既存の倫理学がこれを取り逃がすのは、当事者と傍観者を区別せず「ほかならぬ私」という位置づけを捨ててしまっているからだと論じている。これはある種「運」を引き受けることでもある。
現代の議論においては、その時代以前の思想家の議論の紹介とは違い、筆者の意見が明確に述べられ、批判も行われている。
しかし、筆者の意見が妥当かというと、私としては納得しがたいところも多い。
まず、運の問題を認識の問題と考えるのは(我々が全知でない以上)何の意味がないと筆者は言う。だが、例えば「彼は殺人をしたのではと考えられているが、証拠が乏しい」のような、まさに「我々の認識能力の欠如のために、道徳判断が滞る」ケースと、通常「道徳における運」の例とされるケースとでは、我々は大きく異なる扱いをするのが普通であり、ゆえにもしこれらが本質的には同一の(認識能力不足という)問題に起因するのであれば、それは明確に現在の道徳の取り扱いにある種の現実的な帰結や示唆をもたらすはずである。少なくともなにがしかの意味はもたらされると思う。
また、ウィリアムズの議論に沿って、ネーゲルらの「道徳」の議論は、社会的な公正性や帰責性などを論じているのに対し、ウィリアムズの「倫理」は、個々人がどう生きるかを考えるものだとしている。しかし一方で、不可抗力的に子供を轢いた運転手が「不可抗力だったから」と自責の念に囚われずにあっさり立ち直ったら、我々はこの運転手を不信の目で見ると肯定的に述べている。これはつまり、自責しない運転手は「(第三者である我々が)非難するに値する」と述べているに等しく、批判することが正当というためには、各自の生き方のレベルを超えているわけであり、その批判の公正性は当然に俎上にあげげねばならない。「生き方としての倫理だから」という一方で、実質的に「公正性のある道徳」と同じような扱いをするようにこっそり滑り込ませてしまっているように見える。
しかし、本書で一番重要な問題は、古代~中世の冗長な照会に紙面を割きすぎて、筆者が明確に主張を行っている箇所にほとんど紙面が割けていないことであろう。
批判するのであれば最低限の批判相手の議論の紹介と検討が必要だと思うが、それがきちんとできているようにはあまり見えない。
上に挙げた疑問点もいくつかは筆者は応答できるのではと思うが、それらは本文中できちんと議論してほしかった内容である。
テーマは非常にいいのだが、分量の配分が不適切で、丁寧に議論しないといけないところが駆け足でやや粗雑になってしまった印象であった。
既存の倫理学では運の要素が無視されがちであると筆者は指摘したうえで、運の問題をどのように道徳において考えるべきかが、さまざまな過去の思想家の主張を見ながら論じられている。
前半半分以上が割かれているのが古代の話である。
アリストテレスなども取り上げられているが、神話の話もかなり長いという印象である。
その後ストア派とその影響が触れられていく。
このあたりの話は、ストア派に対してはやや批判的なコメントもあるが、基本的にひたすら「この人はこういう風に考えてこう論じた」と紹介していくだけという面が強く、この辺はもっと短くまとめた方がよかったと思う。
中盤の50ページ弱がアダム・スミスに割かれており、ここはなかなか面白い。
スミスは、道徳判断は原則としては行為者の意図に基づいて判断されるべきだとする公正の原則を支持するが、一方でこの原則から外れて行為の結果に即した判断も人間は行うと考える。それを「感情の不規則性」や「誤った感覚」と呼んでいる。
スミスはこれらを必ずしも否定的にのみ捉えるわけではなく、他者の幸福のためには(意図だけではなく)行動が重要であること、内心を重視しすぎると異端尋問に陥りやすいなどという点も述べており、まさにこうした人間的な感情が「見えざる手」に導かれて理念的な公正の原則に漸近させるのではないかと筆者はまとめている。
最後の6分の1ほどが現代倫理学の論争概観なのだが、読む限り筆者の大元のモチベーションはこの現代における「道徳的運」の論争にあるように見える。
これはネーゲルとウィリアムズが「道徳的運」という同名タイトルの論文を出したことから始まる論争で、道徳における運の要素が活発に議論されているという。
ネーゲルは主流倫理学の流れに合った議論を展開しており、まず道徳に対し「コントロール原則(自分が行為可能な範囲内でのみ道徳的責任は生じる)」を採用したうえで、回避不可能な帰結への自責の念や非難などについて「道徳の問題ではなく認識論的問題である」と指摘する。
つまり、我々の認識能力(あるいは「もしある人がこれをしなかったらどうなったのか」という帰結を見通す能力)が不完全であるがゆえに道徳評価に運の問題が入り込んでいるようにみえるのだ、という理解である。
しかし筆者は、全知の人間はおらず、道徳的評価は実際のこの世界で行わねばならない以上、運を認識能力の問題とみなす議論は意味がないとする。
筆者がより肯定的に言及するのは現代倫理学では傍流ともいえるウィリアムズの議論で、「社会全体の公平な規則としての道徳」と「各人の良き生き方としての倫理」を分け、例えば家族を捨ててタヒチに渡ったゴーギャンは、前者の意味では道徳的でないが、後者の意味で「善く生きようとした」と議論したりしている。
そのうえで、「不可抗力の事故に対する自責」や「事故で生存者が自分を責めること」などは道徳的に妥当な反応であり、既存の倫理学がこれを取り逃がすのは、当事者と傍観者を区別せず「ほかならぬ私」という位置づけを捨ててしまっているからだと論じている。これはある種「運」を引き受けることでもある。
現代の議論においては、その時代以前の思想家の議論の紹介とは違い、筆者の意見が明確に述べられ、批判も行われている。
しかし、筆者の意見が妥当かというと、私としては納得しがたいところも多い。
まず、運の問題を認識の問題と考えるのは(我々が全知でない以上)何の意味がないと筆者は言う。だが、例えば「彼は殺人をしたのではと考えられているが、証拠が乏しい」のような、まさに「我々の認識能力の欠如のために、道徳判断が滞る」ケースと、通常「道徳における運」の例とされるケースとでは、我々は大きく異なる扱いをするのが普通であり、ゆえにもしこれらが本質的には同一の(認識能力不足という)問題に起因するのであれば、それは明確に現在の道徳の取り扱いにある種の現実的な帰結や示唆をもたらすはずである。少なくともなにがしかの意味はもたらされると思う。
また、ウィリアムズの議論に沿って、ネーゲルらの「道徳」の議論は、社会的な公正性や帰責性などを論じているのに対し、ウィリアムズの「倫理」は、個々人がどう生きるかを考えるものだとしている。しかし一方で、不可抗力的に子供を轢いた運転手が「不可抗力だったから」と自責の念に囚われずにあっさり立ち直ったら、我々はこの運転手を不信の目で見ると肯定的に述べている。これはつまり、自責しない運転手は「(第三者である我々が)非難するに値する」と述べているに等しく、批判することが正当というためには、各自の生き方のレベルを超えているわけであり、その批判の公正性は当然に俎上にあげげねばならない。「生き方としての倫理だから」という一方で、実質的に「公正性のある道徳」と同じような扱いをするようにこっそり滑り込ませてしまっているように見える。
しかし、本書で一番重要な問題は、古代~中世の冗長な照会に紙面を割きすぎて、筆者が明確に主張を行っている箇所にほとんど紙面が割けていないことであろう。
批判するのであれば最低限の批判相手の議論の紹介と検討が必要だと思うが、それがきちんとできているようにはあまり見えない。
上に挙げた疑問点もいくつかは筆者は応答できるのではと思うが、それらは本文中できちんと議論してほしかった内容である。
テーマは非常にいいのだが、分量の配分が不適切で、丁寧に議論しないといけないところが駆け足でやや粗雑になってしまった印象であった。
2019年5月11日に日本でレビュー済み
『ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』に続く論著は『不道徳的倫理学講義』である。前著も素晴らしかったが、今回もなかなかの出来映えである。本書の言う「不道徳」は背徳的や反社会的という意味ではなく、道徳=善以外の要因としての「運命」が西洋倫理学史に与えた影響を重視するということである。
古代ギリシャでは神話的世界観が大きな影響を及ぼした。特に神々が人間の「運命」を定めたということである。したがって、神を越える哲学的思考は神話的世界観からの脱却を必要とした。ソクラテスは不敬神の罪で訴えられ、死刑が確定し、死を怖れずに毒杯を仰ぎ、毅然とした態度でソクラテスは死んでいった。これは死刑を自己の運命として甘んじて受け入れ、無抵抗に死んだことではなく、プラトンが『ソクラテスの弁明』で描いたように、裁判でソクラテスは不敬神の罪が自分には当てはまらないことをダイモニオン(神霊)を理由に論証し、判決については裁判員に自己の「運命」を委ねたのである。その結果死刑が確定したが、それはソクラテスにとって敗北ではない。「ロゴス(理性)」の国家の不正に対する勝利である。死刑を「ノモス(法)」として受け入れたことは正義を貫き、魂を優れたものにすること(徳=アレテー)を心掛け、善く生きることを実践したのである。これはまさしく「運命」に対する「道徳」の勝利であった。不道徳=「運命」は、「ロゴス(理性)」に敗北したのである。このことを著者にはしっかりと受け止めて欲しいと思う。「不道徳=運命」のみでは西洋倫理学史は語れないことを。
とは言え、道徳の外部=運命から西洋倫理学史を語ることの面白さを著者が証明した。本書はお勧めの異端的倫理学書である。
古代ギリシャでは神話的世界観が大きな影響を及ぼした。特に神々が人間の「運命」を定めたということである。したがって、神を越える哲学的思考は神話的世界観からの脱却を必要とした。ソクラテスは不敬神の罪で訴えられ、死刑が確定し、死を怖れずに毒杯を仰ぎ、毅然とした態度でソクラテスは死んでいった。これは死刑を自己の運命として甘んじて受け入れ、無抵抗に死んだことではなく、プラトンが『ソクラテスの弁明』で描いたように、裁判でソクラテスは不敬神の罪が自分には当てはまらないことをダイモニオン(神霊)を理由に論証し、判決については裁判員に自己の「運命」を委ねたのである。その結果死刑が確定したが、それはソクラテスにとって敗北ではない。「ロゴス(理性)」の国家の不正に対する勝利である。死刑を「ノモス(法)」として受け入れたことは正義を貫き、魂を優れたものにすること(徳=アレテー)を心掛け、善く生きることを実践したのである。これはまさしく「運命」に対する「道徳」の勝利であった。不道徳=「運命」は、「ロゴス(理性)」に敗北したのである。このことを著者にはしっかりと受け止めて欲しいと思う。「不道徳=運命」のみでは西洋倫理学史は語れないことを。
とは言え、道徳の外部=運命から西洋倫理学史を語ることの面白さを著者が証明した。本書はお勧めの異端的倫理学書である。
2021年1月27日に日本でレビュー済み
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人類の与り知らない不可思議現象である“運”について考察した書。
それはいいのだが、どうして西欧世界でしか運を語れないのだろう?まるで、運と言う神秘は西欧にしか存在しないかのようだ。日本や東アジア、また他の地域については存在すらしていないかのように、きれいさっぱりと無視している。
西半球に劣らず東半球にも、場合によっては西半球以上に豊富なエピソードを持っているかも知れないのに。
西半球に限定して運を語るのならば、なぜ西半球に限定したのかを最初の時点で明らかにしておいて欲しかった。
西欧だけが普遍でないのならば······
それはいいのだが、どうして西欧世界でしか運を語れないのだろう?まるで、運と言う神秘は西欧にしか存在しないかのようだ。日本や東アジア、また他の地域については存在すらしていないかのように、きれいさっぱりと無視している。
西半球に劣らず東半球にも、場合によっては西半球以上に豊富なエピソードを持っているかも知れないのに。
西半球に限定して運を語るのならば、なぜ西半球に限定したのかを最初の時点で明らかにしておいて欲しかった。
西欧だけが普遍でないのならば······
2020年8月24日に日本でレビュー済み
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人生にとって運とは何か、歴史的にどう考察されてきたのかについての紹介は十分だが、著者自身の考えについてもっと知りたかった。
その点で物足りない。
その点で物足りない。